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当分、休みます。

このブログは、
当分の間、お休みいたします。

再開は未定ですが、
また、再開できたら幸せだと思っています。

今まで、読んでくださった皆様、
どうも、ありがとうございました。


お元気で!


がんばってください!!

posted by: kokouchi | - | 20:38 | comments(3) | - |-
こころに、打ち出の小槌を168

20世紀の喜劇王である、
チャーリー・チャップリンの自伝を、
読んでいたら、
チャップリンの母の話しが、
出てきました。

チャップリンの母は、
若いころは、
小さな劇団の舞台女優として、
まあ、それなりに活躍もして、
女優である間は、
生活も、それなりに裕福(ゆうふく)だったようです。

けれど、病気によって、
声が出なくなり、
舞台を去(さ)らなくてはならなくなってからは、
夫(チャップリンの父)も亡(な)くなり、
なんとか、内職の針仕事で、
食をつなぐ、
それこそ、貧窮(ひんきゅう)のかぎりを、
つくしたそうです。

それでも、母は、
チャップリンが、遊びから帰ってくると、
いつも、大喜びで、
フライ・パンを肉のたれ汁に、
ひたしたものとか、
祖父から、もらった卵に紅茶だとか、
なにかを、つくってくれた。

そして、そのあと、
本を読んでくれたり、
一緒に窓ぎわに座って、
道行く人の批評(ひひょう)をしたりして、
チャップリンを喜ばせてくれた。
つまり、眺(なが)めながら、
いろんな話しを創作してくれた。

たとえば、元気そうな青年が、
浮き浮きした足取りで、やってくると、
「ごらん、ホッパンスコッチさんが、やってくるよ!
 なにか、賭(か)け事を、しにゆくところなのよ。
 ね!もし、うまくいったらね、
 自分と好きな女の子に、きっと、
 古物の二人乗り自転車を買うつものなのよ!」

次は、なにやら、ふさぎこんだ男が、
とぼとぼと、やってくる。
「ははあ、あの人、家に帰ると、
 大嫌いなシチューとパースニップの
 夕食が、待ってるんだわ。」

また、肩で風でも切るような歩きつきの男が通ると、
「おやおや、カッコいい若者だけど、
 実はあの男、きっとズポンの、お尻(しり)の穴を、
 気にしているのよ!」

次は、ひどく、せかせかした足取りの男がくる。
「あの人ね、たった今、
 滋養強壮剤を飲んだばかりのところよ、きっと!」

といった調子で、まず、
いつ果(は)てるともなく、つづき、
子供のチャップリンは、
腹の皮を、よじらせて笑ったそうです。

そんなチャップリンの母も、
あまりの貧困による、
極度の栄養失調と、生活苦により、
とうとう、気が狂(くる)ってしまった。

いつも、子供のチャップリンは、
家に帰ると、
母が買ってきてくれる、お菓子の紙袋の中を、
もどかしげに、のぞきこむ癖(くせ)があった。

そして、母が気が狂ってしまった、
その日も、
家には、ちゃんと、紙袋の中に、
わずかばかりだが、
キャンディが、とってあったそうです・・・。


母親という生き物は、
なんて、偉大な生き物なんだろう!!!
と、思ってしまいました。
現代では、そうでない母親も、
たくさん、いるようだけれど、
基本的に、やはり、
母親という生き物は、
本当に、偉大で、尊(とうと)い存在だと思う。

創価学会の二代会長である、
戸田城聖先生が、

「母が皆(みな)、
 幸せになった時に、
 本当の平和な世界となる」

と生命を震(ふる)わせて、叫(さけ)ばれた。

そして、
創価学会インターナショナル会長である、
池田先生も、言っている。

「すべての女性と子供たちが、
 笑いさざめく時代に!
 
 それが、われらの大目的だ!!」

と。

創価学会は、『母』を、大切にする。
なかんずく、婦人を、大切にする。
もっと言えば、女性を、大切にする。

なぜならば、
創価学会を、支(ささ)えているのは、
名もない『母』たちであり、
婦人だからです。

それは、まぎれもない事実です。
そして、その創価学会の母たちを、
ことごとく、幸せにしてきたのも、
創価学会です。

逆に言えば、
創価学会が実践する、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)には、
もっとも、根幹的(こんかんてき)な『母』たちを、
どんなことがあったとしても、
本当に、確実に、
幸せにしていける哲学(てつがく)と、法則があり、
現実の人生を、幸せに変えていける、
真実の力(ちから)がある!!
ということだと、思う。

母たちを、幸せにした分だけ、
世界の平和は、広がる。
それが、創価学会が目指す、
平和だと、思う。

もっとも確実で、もっとも身近な平和、
それが、母たちを、
幸せにしていくことだと思う。

それが、創価学会が、
やってきたことです。

『環境(かんきょう)の母』と言われ、
ノーベル平和賞を受賞した、
マータイ博士は、
「グラフSGI」という、
創価学会の写真雑誌のページを、
めくりながら、
創価学会の女性たちが写っている写真を、
指差(ゆびさ)しながら、言っている。

「見て!
 この笑顔!
 世界中のどこに行っても、
 創価の人たちが、一番、
 幸せそうね!
 ほんとうに、びっくりするほどです!!」

 どうしたら、
 こんなに素晴らしい笑顔になるのですか?」

と・・・。

「どうしたら、
 こんなに素晴らしい笑顔になるのですか?」

その答えは、
当然、
『ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経を、となえる!』
仏法の信仰であり、
その南無妙法蓮華経の仏法を、
誠実に、正確に実践(じっせん)している、
創価学会の活動です。

すべての母たち、婦人たちを、
世界で、いちばん、最高の笑顔にする方法!
それが、創価学会が実践する、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

最後に、
池田先生が、作詞した『母』という曲の、
詩を、紹介して、終わりたいと思います。


 母よ あなたは
 なんと不思議な 豊かな力を
 もっているのか
 もしも この世に
 あなたがいなければ
 還(かえ)るべき大地を失い
 かれらは永遠に さすらう

 母よ わが母
 風雪に耐(た)え 悲しみの祈(いの)りを
 繰(く)り返した 母よ
 あなたの願いが翼(つばさ)となって
 おおぞらに舞いくる日まで
 達者にと祈る

 母よ あなたの
 思想と、かしこさで 春を願う
 地球の上に
 平安のしらべを 奏(かな)でてほしい
 その時 あなたは
 人間世紀の母として 生きる


・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

posted by: kokouchi | | 21:24 | comments(0) | - |-
こころに、打ち出の小槌を167

映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」や、
「ロード・オブ・ザ・リング」
などの出演で人気のある俳優、
オーランド・ブルームを知っている人は、
多いと思う。

ぼくも、ビデオで
「ロード・オブ・ザ・リング」の三部作を、見たんですが、
なかなか、楽しめました。(長いけど・・)
オーランド・ブルームは、
エルフ族という、
天使の一族の王の子供、
『レゴラス』という
弓(ゆみ)の使い手として、
登場していた。

『パイレーツ・オブ・カリビアン』は、
一作目しか見ていないけれど、
なかなか、おもしろかったです。


その俳優、オーランド・ブルームさんが、
以前、
創価学会のインターナショナル会長である、
池田先生に、
一枚のカードを、贈(おく)っています。

そのカードには、
こう、書かれていました。

『親愛なる先生!
 法華経(ほけきょう)の剣(つるぎ)をかかげ、
 誠実を、わが規範(きはん)とし、
 あなたを、わが師(し)とし、
 全宇宙の善なる力を味方として、
 私は、広宣流布(こうせんるふ)を、
 目指します。
 (広宣流布とは、仏法の哲学(てつがく)と思想を、
 人生の根幹(こんかん)に置くことによって、
 世界平和、人類の調和と幸福を、
 目指していくという意味です)
 
 そして、山頂から四方(しほう)を、
 はるかに見渡(みわた)す日まで、
 険(けわ)しき妙法(みょうほう)の山を、
 登攀(とうはん)しゆくことを、
 誓(ちか)います。
 (妙法とは、南無妙法蓮華経の略(りゃく)で、
 宇宙の法則(ほうそく)であり、生命の法則であり、
 幸せになるための法則です)

 山の頂(いただき)において、
 私は、感謝を抱(いだ)いて、
 次なる生命の冒険への旅立ちに挑(いど)みます。

 生々世々(しょうじょうよよ)、
 あなたとともに、多くの山を、
 登攀(とうはん)しゆくことに、
 わが胸は、躍(おど)るのです。

 
 あなたの弟子にして友
 オーランド・ブルームより』


これは、オーランド・ブルームが、
以前、日本で池田先生に会ったときに、
先生に渡したカードの内容です。

これで、わかると思いますが、
オーランド・ブルームも、
創価学会の一員です。

彼は、池田先生のスピーチを読んだ感想を、
このカードに、書き記(しる)したそうです。

池田先生は、こんなオーランドに対して、
こう、励(はげ)ましています。

「スウェーデンの劇作家ストリンドベリは、
 言いました。
 『俳優は、役を支配すべきで、
  役に支配されてはならない!』
 大事なのは、自分自身に生き切ることです。
 オーランドさんは、その通りの人生を、
 進んでいます。
 役者だけ、仕事だけ、
 そうであれば、平凡です。
 
 本当に人のために、社会のために、
 永遠の哲学である仏法(ぶっぽう)のために、
 生きておられる。
 その姿は、尊(とうと)いです。
 一番、価値のある生き方です。」

それに対し、
オーランド・ブルームは、答えている。
「私は、必ず行動します!
 池田先生!
 見ていてください!!」

池田先生は、さらに続けている。

「長い長い人生です。
 最後の最後まで、大いなる理想に向かって、
 生き抜(ぬ)いていくのです。
 黄金の夕日が、大空を、
 真っ赤に染(そ)め上げながら、
 荘厳(そうごん)な輝(かがや)きを放(はな)つように、
 人生の最終章を
 見事に飾(かざ)っていくための仏法です。
 
 そのために、一年、一年が、戦いです。
 一年、一年が、勝負です。
 今の成功が未来の成功とは、かぎらない。
 『最後の勝利を!』
 これが、永遠の勝利です。
 友人として、私は、申し上げます。」

オーランド・ブルームの一行(いっこう)も、
「池田先生の、
オーランドへの励(はげ)ましを聞いていて、
 自然と涙が、あふれてきました。」

 と、ほほを、ぬぐう、
 さわやかな光景に、つつまれました。

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

池田先生は、さらに、
オーランド・ブルームへの励ましを、続けました。

「オーランドさんも、これまで、
 悪意の中傷や虚偽(きょぎ)の報道によって、
 いやな思いを、されたことがあると、
 聞きました。
 
 私も、そうです。

 人から、ほめられていてばかりで、
 何の批判(ひはん)も、されない。
 そのな人間は薄(うす)っぺらです。
 
 牧口創価学会初代会長は、
 『愚人(ぐにん)に憎まれたるは、 
  第一の光栄なり!』
 と、述(の)べました。
 学会の三代の会長は、
 この精神で、戦ってきました。
  
 今の時代は、仏法から見れば、
 人々の心が、濁(にご)った時代です。
 優(すぐ)れた人がいれば、
 それを妬(ねた)んで、
 足を引っ張ろうとする人間がいるものです。

 しかし、そうした輩(やから)など、
 悠然(ゆうぜん)と見おろして、
 進んでいくことです。」

オーランド・ブルームは、
深く、うなずき、
「本当に、そうだと思います!」
と、語った。

オーランド・ブルームは、
21才の時、3階の高さから転落し、
背骨などを折る大けがを、してしまった。

医師からは、
「一生、歩けないかもしれない。」
とまで言われたが、
家族や友人の励ましによって、
奇跡的なカムバックを、とげる。

池田先生は、そんなことも、ふまえて、
「もし、今度、
 けがを、したら、
 罰金ですよ!!!」

と、ユーモアを込めて、
語った・・・・。

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

posted by: kokouchi | 映画 | 20:45 | comments(0) | - |-
こころに、打ち出の小槌を166

先日、ビデオで、
『四日間の奇跡(きせき)』という映画を、
見た話しを、しましたが、
この映画は、
脳に障害(しょうがい)がありながら、
ある分野に関しては、
天才的な能力を発揮(はっき)するという、
サヴァン症候群という症状の少女と、
その少女を、落雷の事故から、
助けようとした真理子の心が、
入れ替(かわ)わってしまうという、
映画的と言えば、映画的な、
とても、信じられない四日間の奇跡を、
あたたかく、切なく、
描かれているドラマだけれども、
その中で、
一人の医者が、登場する。

サヴァン症候群の少女「千織(ちおり)」の、
保護者である、如月(きさらぎ)は、
医者が、信じてくれないのは、わかっていても、
千織と真理子の心が、入れ替(か)わってしまったことを、
その医者に、説明しようとする。

しかし、当然、医者は、
信じようとはしない。

けれど、その医者は、
妻が、事故によって、
植物人間になってしまい、
生きているのか、いないのか、
わからないような状態でも、
何年も、その妻を、看病してきていた。

医学的には、そんなことは、ありえないと、
わかっていても、
彼が、植物人間となった妻の手を、
握(にぎ)りしめると、
なぜだか、妻が、握りかえしてくる気がした。

彼は、
千織の保護者である如月を、
自分の妻のところに、連れて行き、
話す。

「オレは、これでも、
 科学者の、はしくれだ。
 心が、入れ替わるなんてことを、
 信じるわけには、いかない!」

「けれど、時として、
 奇跡としか思えないような場面に、
 出くわすことがあるのも、事実だ・・」

「信じてやればいい。
 信じるということは、
 人間の脳に与(あた)えられた
 偉大な力のひとつだぞ・・!」

と・・・。


『信じるということは、
 人間の脳に与えられた、
 偉大(いだい)な力のひとつだぞ・・!』

信じるということは、不思議だ。
信じるということは、目に見えない。

けれど、信じるということなしに、
人間の人生が、成り立たないのも、
事実です・・・。

人は、信じているから、行動ができる。
水に毒が入っていないと、信じているから、
水を、飲む。
食べ物に、猛毒(もうどく)が入っているとわかっていて、
食べ物を、食べる人は、いない。

人は、たとえば、
会社で働くにしても、
経営者が、給料を、はらってくれると、
信じているから、働くのだ。

また、相手を、信じていないで、
結婚する人も、いない。

人間の行動は、すべて、
信じることによって、
成り立っている。

信じなかったら、
生きることは、不可能だ!ということです。

『信じるということは、
 人間の脳に与えられた、
 偉大な力のひとつ』

すなわち、信じるということは、
すべてを、可能にしていく!!
信じなかったら、すべてが、
不可能になってしまうからです。

信じるという、この強力なエネルギー。
人間にとって、
これほど、強力で、偉大な能力は、
確かに、ないと思う。

すなわち、信じるというエネルギーからは、
無限の可能性と、無限の力(ちから)が、
泉(いずみ)のごとく、
湧(わ)き上がってくるということだと、
思う。

人間の歴史における、
あらゆる発見、あらゆる発展も、
すべては、
この信じるというエネルギーから、
発(はっ)していると言っても、
過言(かごん)ではない。

仏法の真髄(しんずい)である、
『法華経(ほけきょう)』。

この「法華経」の教えを、
理屈(りくつ)で、理解できた人は、いないと言う。

天才中の天才と言われた、
舎利弗(しゃりほつ)であっても、
とうとう、この法華経(ほけきょう)を、
理屈で理解することは、
できなかったと、いう。

では、どうして、理解したか?
結局、シャリホツは、
『信じる』ことによって、
仏法の真髄・法華経を、理解することが、
できた。

理解することが、
先(さき)ではなく、
信じることが、先だった!
それほど、『信じる』ということには、
価値(かち)がある・・・!

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

信じないことは、ゼロだが、
信じることからは、
無限の価値が、生まれる!!

もちろん、間違ったものを、
信じたら、不幸になる。
当然だ。
たとえば、戦争。
戦争を美化し、侵略(しんりゃく)戦争を、
正義の聖戦などと信じて、
死んでいった若者は、
ほんとうに、あわれです。

宗教にも、同じことが、言える。
間違った宗教を、信じた人々は、
必ず、不幸になる。

宗教とは、信じることが、
根本になっているがために、
結果が、はっきりと、明確に出てくる。
すなわち、間違った宗教を、
信じたら、100%、
不幸という、現実の結果が、
必ず、出てきてしまう。

だから、宗教なんて、どうでもいいものだ。
ともかく、手を合わせれば、
それでいいんだなどと、
簡単に考えていると、
とんでもない、しっぺ返しを、くう!!!

間違った宗教を、信じたら、
100%、不幸になる!!!

だが、
信じることには、無限の力がある!
その信じることの、
最高峰(さいこうほう)といえる宗教において、
もし、その宗教が、本当に正しく、
力(ちから)ある宗教であるならば、
その宗教によって、
『信じる』という力は、
無限の価値と、無限のエネルギーと、
無限の希望となって、
その人の人生を、飾(かざ)り、
その人を、幸せにしていく。

それも、事実です。

そのことを、
完璧(かんぺき)に、明確に、説きあらわし、
すべての人に、実践できるようにしたのが、
日蓮大聖人であり、
その法則(ほうそく)が、
現代の法華経である、
『南無妙法蓮華経』の法則です。

そして、その南無妙法蓮華経の法則を、
1ミリ、一滴(いってき)の違いもなく、
純粋に、実践しているのが、
創価学会です。

南無妙法蓮華経の法則は、
すべての人を、幸せにできる法則であるけれど、
信じないことには、
だれも、幸せにできない!!!

だから、まず、
ともかく、信じて、やってみる!
そうすれば、必ず、
さまざまな悩みや問題は、解決し、
真剣に実践していくことによって、
必ず、夢や希望が、かない、
どんな人でも、幸せになっていくことが、
できる!

それが、創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。

いわば、南無妙法蓮華経は、
『信じる』という、
無限のエネルギーと、無限の可能性を、
最大限に発揮(はっき)させ、
最大限に開花される法則だと、
言えると思う。

だから、創価学会が信じ祈っている、
『ご本尊(ほんぞん)』を信じて、
ともかく、ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえぬくとき、
どんな人でも、どんな境遇(きょうぐう)の人でも、
必ず、絶対に、幸せになっていける・・!

その証拠(しょうこ)として、
創価学会は、世界192ヶ国に、ひろがり、
世界中から、期待と尊敬を集め、
今も、南無妙法蓮華経を、となえぬく人々を、
幸せにしている。

それが、
『信じる』という、
人間の持つ最高最大の力であり、
『信じる』エネルギーを、
最大限に発揮させ、開花される、
『南無妙法蓮華経』の法則だと思う・・・。

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

posted by: kokouchi | 映画 | 21:53 | comments(0) | - |-
こころに、打ち出の小槌を165

このまえ、ビデオで、
『四日間の奇跡』という映画を、
見ました。

新進ピアニストとして、
期待されていた如月(きさらぎ)は、
海外でのコンサートを終えた直後、
テロ的事件に、巻(ま)き込まれる。

そのテロ的事件によって、
ある夫婦が殺され、その子供である、
一人の少女を、如月は、助ける。
しかし、少女を助ようとした時に、
ピアニストの生命線である指を、
ピストルで撃(う)たれ、
指の神経を断裂(だんれつ)してしまう。

如月(きさらぎ)は、失意の底に沈(しず)むが、
それでも、父母を失い、
身寄(みよ)りをなくしてしまった
少女・千織(ちおり)を、
やしなうことを、決意する。

千織は、脳に障害があり、
話すことも、ままならなかった。
けれど、一度聴いた旋律(せんりつ)を、
一音違(たが)わず再生できる、
特異な能力を持っていることが、わかった。
それは、ピアニストの如月だから、
発見できたと言えるが、
如月の手ほどきによって、
千織は、信じられないピアノ演奏の才能を、
発揮(はっき)していく。

如月は、各地の施設を慰問(いもん)しながら、
千織の演奏を披露(ひろう)する日々をおくり、
そこに心のやすらぎを、おぼえていく。

そんななか、
慰問先の小さな島の療養(りょうよう)センターで、
如月は、彼を「初恋の人」として
ひそかに慕(した)っていた岩村真理子と出会う。
真理子は、センター職員として
周囲の人々に親しまれ明るく働いていた。
しかし彼女も、心に深い傷(きず)を負っていた。
そして、悩んでいた。

演奏会を終えた午後、
中庭で真理子と千織は、
姉妹のように戯(たわむ)れていた。
と、その時、思いもかけぬ落雷が襲(おそ)ってきた。 
真理子は、千織をかばって大怪我(おおけが)を負い、
意識不明のままICU(集中治療室)に収容された。
彼女の命の期限はあと4日だという。

真理子に助けられた千織は、
ショック状態から覚(さ)め、意識を取り戻す。

その時、千織は、如月に告(つ)げた!
「私、真理子です。
 私は私のまま、
 千織ちゃんの身体の中にいるんです」

真理子の心が、千織の中に!?
逆に意識不明の真理子の中には千織がいて、
真理子の命を、支(ささ)えているという。
けれど、支えるのにも限界がある。
それが、4日間だということです。

これが、映画「四日間の奇跡」の、
大まかな、あらすじですが、
その千織の体によって真理子に与(あた)えられた、
『残りの命』、四日間の奇跡を、
あたたかく切ないドラマとして、
描き出しています。

如月は、指が動かなくなり、
ピアニスト生命が絶たれ、
絶望していた。

けれど、この映画の後半で、
千織の体の中にいる真理子は、
自分の初恋の人であり、
今も愛している如月に、言います。

「自分に価値(かち)を、みとめないのは、
 もう、やめにして!」

「わたしも、ぜんぜん、気づいていなかったの!
 今日の今日まで・・・
 でも、千織ちゃんが、くれた、
 四日間の奇跡のおかげて、
 私は、間に合った!!

やっと気づけたのよ!
自分の価値に!!!

 わたし、父と母に言うの!(二人とも亡くなっている)
 『生んでくれてありがとう!』 
 そこまで、思えたの!
 だから、もう、こわくない。」

真理子は、最後の四日間、
千織の体を借(か)りて、
自分と自分の周(まわ)りの人たちを、
客観的(きゃっかんてき)に見ることが、できた。
そして、自分の価値に気づき、
『ありがとう』と言って死んでいく。


生きていく自分の価値・・・。


人間の、さまさまな悩みも、
根底には、
この『自分の価値』があるのか?どうなのか?
その『自分の価値』に対する疑問・・!
これが、必ず、あると思う。

自分には、
生きていく価値があるのか?
・・・ないのか?

表面的な、ありとあらゆる、
さまざまな悩みも、
この『自分の価値』に対する疑問から、
きていると言っても、
言いすぎでは、ないと思う。

それくらい、この、
『自分の価値』に対する命題(めいだい)は、
重要だということです。

ようするに、
この『自分の価値』が、わかり、
『自分の価値』に気づけたならば、
大半の悩みや問題は、
根本的には、ほとんど、
解決されると言っても、
過言(かごん)では、ないと思う。

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

『自分の価値』が、わかったならば・・・
『自分の価値』に、ほんとうに、
目覚(めざ)めることが、できたならば・・・・

この『自分の価値』に対する命題に、
みごとに!明確に!答え、
あらゆる、すべての人々に、
納得(なっとく)させ、感じさせ、
現実の中で、実感できるようにしたのが、
創価学会が実践する、
『南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)』です。

南無妙法蓮華経は、
あまりにも深く、スゴイので、
説明するのは困難(こんなん)ですが、
自分の価値に目覚め、
自分の価値を、開花させ、
現実に感じていける法則(ほうそく)が、
『南無妙法蓮華経』だと、言えます。

だから、
南無妙法蓮華経を、となえていくと、
真実の自分が、見えてくる。
たとえ、それが、大げさな言い方だとしても、
南無妙法蓮華経を、となえていくと、
生きていく価値が、無意識のうちに、
感じられるようになり、
無意識のうちにも、『自分の価値』が、
自分の実感として、わかってくるので、
生きるのが、楽しくなっていきます。

そして、やがて、
自分の生きていく価値、
すなわち、『使命』を、感じるようになり、
その「生きがい」である『使命感(しめいかん)』は、
自分が生きていることに、
大きな喜びと歓喜と幸せを、もたらします。

ようするに、なぜだか、わからないけど、
ウキウキして、楽しくなってくる。
希望に満(み)ち、前向きになり、
「ようし!今日も、やったるでーー!」
と言えるような、
最高の生き方が、できるようになってきます。

だから、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
根本の「自分の価値」に対する悩みが、
解決したとき、
表面的な小さな悩みや問題は、自然と解決し、
不思議と、夢や希望が、
かなうようになってゆき、
その結果、
当然、幸せになっていきます。

それが、
南無妙法蓮華経を、となえるということだと、
思います。

だから、創価学会は、
世間のデマや中傷(ちゅうしょう)などでは、
びくともせず、
世界192ヶ国に、ひろがり、
その「自分の価値」に目覚めた、
ひとりひとりが、
幸せと、平和の花を、
世界中に、咲(さ)かせています。

それは、あたかも、
映画「四日間の奇跡」で、
真理子が、
 「やっと気づけたのよ!
 自分の価値に!!!

  わたし、父と母に言うの!
 『生んでくれてありがとう!』 
  そこまで、思えたの!」

と言ったように、
その人に、最高のすがすがしさと、
歓喜と、充実(じゅうじつ)と、幸せを、
もたらしてくれる・・・・。

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

posted by: kokouchi | 映画 | 21:54 | comments(0) | - |-
こころに、打ち出の小槌を164

20世紀を代表する、
天才オペラ歌手の「マリア・カラス」は、
若いころ、
母親の故郷であるギリシャで、
オペラ歌手になるべく、
専門の音楽学校に行き、訓練を受け、
大きく成長していくが、
その後、自分が生まれ、
父親の住んでいる、
アメリカに旅立つことを、
決意する。

その時の心情(しんじょう)を、
マリア・カラスは、こう語っています。

「何年もたったいまになって、ようやく、
 実感できるのですが、
 ずいぶん危険な冒険をしたものだし、
 21才の文無(もんな)しの女性が、
 戦後まもなく、たった一人で、
 父親にも旧友たちにも会えないという、
 最悪の状態を想像(そうぞう)しながら、
 アメリカに帰るのは、
 本当に大変なことでした。
 
 勇敢(ゆうかん)だったなどと言うつもりはありませんが、
 若さからくる無垢(むく)な心が、
 自分の歌で何ごとかを、なしとげようとする、
 勇気と野心を与(あた)えてくれたのです。

 私たちが、ふだん、
 勇気と呼んでいるものの陰(かげ)に、
 もっと深い何かが、ありました。
 
 それは、本能であり、
 私を見捨てることのない、
 神への絶対的な信頼でした。」


と、言っています。


『勇気』と呼んでいるものの陰(かげ)には、
深い何かがある!

確かに、「勇気」には、
えたいの知れない何かが、ある!
それは、一切(いっさい)を変える力であり、
強力なエネルギーでも、ある。

そして、勇気の陰には、
もっともっと深い何かが、ある!!

それは、本能的とも言える、
自分の中で、決して捨てることのできない、
神への絶対的な信頼だという。

勇気に内包(ないほう)しているもの、
それは、絶対的な信念!
純粋にして誠実な、
けっして、裏切ることのできない
生命の叫(さけ)び。
その無限のエネルギーが、
『勇気』なのかもしれない。

創価学会の二代会長である、
戸田城聖先生が、
「勇気は、慈悲(じひ)に通じる」
と、言っていた。

慈悲という偉大な命(こころ)は、
ぼくたち普通の人間には、
なかなか、理解できないし、
自分の中から、
出していくのは、困難かもしれない。

けれど、
慈悲(じひ)に通じるものが、勇気だと、いう。
すなわち、勇気には、
慈悲という、はかりがたい無限のエネルギーが、
内在(ないざい)していると、いうことだと思う。

慈悲は、理解しずらいし、
その偉大なエネルギーが、
どういうものか?
はかりかねないかも、しれない。
けれど、勇気を出すとき、
勇気に内包(ないほう)した慈悲が、
自然のうちに、自分の生命から、ふきだし、
信じられない力を、発揮(はっき)する。

だから、マリア・カラスが言うように、
勇気を出すとき、
自分の中から、神的なもの、
すなわち、自分の中にありながらも、
自分を超(こ)えた何かが、
出現し、発揮されていく。

それが、『勇気』なのかも、しれない。

では、
もっとも『勇気』を必要とするもの、
もっとも、『勇気』を内在しているものとは、
何だろうか?


それは、「信仰」です。
いいかげんな宗教心や、
よこしまな宗教心ではなく、
真実の信仰は、『勇気』と直結しています。

すなわち、真実の信仰、
正しき信仰は、『勇気』なしでは、
けっして、できないからです。

その究極(きゅうきょく)の勇気、
究極の勇気の信仰が、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)だと
言っていい!

だから、
南無妙法蓮華経を、となえるのには、
『勇気』がいる。
勇気を出せないような弱虫には、
となえられないのが、
南無妙法蓮華経であるのも、
事実です。

よく、創価学会をバカにして、
「宗教なんかに、すがっているのは、
 弱虫のやることだ」
とか、言うけれど、
とんでもない!!!逆(ぎゃく)です!!!

たとえば、あなたは、
自分自身を真正面から、見つめ、
真正面から、立ち向かうことが、
できるでしょうか?
そして、自分自身の生命を、
根本から変革しようと思い、
現実に変革していくことが、
できるでしょうか?

これは、難事中(なんじちゅう)の難事なんです。
人は、いくら、偉(えら)そうなことを言っていても、
真正面から自分に立ち向かうことが、
なかかな、できない。
だから、ずるずると、
これでは、いけないと思っていながら、
人生を、無駄(むだ)に過ごしてしまうことも、多い。

こんどは、かりに、
自分自身に立ち向かうことが、できたとしましょう。
かりに、自分自身を真正面から見つめて、
立ち向かうことが、できたとしても、
その自分を、現実に変革していくことが、
できるかというと、
その可能性は、もっと少なくなり、
あきらめるか、現実逃避(とうひ)するかしか、
なくなったりしてきます。

ところが、
創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰は、違うんです!

創価学会が、祈っている、
『ご本尊(ほんぞん)』は、
自分の生命そのものを、表現したものであり、
もう一歩、深く立ち寄(よ)れば、
自分自身の中にある、もっとも強くて偉大な生命
『仏(ほとけ)の生命』を、表現しています。

自分自身の中に、
『仏(ほとけ)の生命』が、あるから、
幸せになっていける。
その自分自身の中にある、仏(ほとけ)の生命を、
開花させていくことによって、
どんな困難も乗り越え、悩みを解決し、
夢や希望を、かなえて幸せになっていける。

その、もっとも強くて偉大(いだい)な、
本当の意味での、
自分自身の生命を、あらわしたものが、
『ご本尊(ほんぞん)』です。

だから、
ご本尊に祈るとき、
ご本尊は、自分の生命そのものなので、
まず、自分の生命に、
立ち向かわなければならない!
だから、勇気が、いります。
そして、南無妙法蓮華経を、となえるとき、
南無妙法蓮華経は、一切の生命を、
変革する法則であり、力(ちから)でもあるので、
自分自身の生命を、
大きく変革していくことになります!

自分自身に立ち向かう勇気。
自分自身を、変革する勇気。
これが、どれだけ、大変か、わかるでしょうか?
どれだけ、偉大か、わかるでしょうか?

ただし、その勇気を出すから、
確実に、必ず、
幸せになっていけるわけです。

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

だから、この創価学会の、
南無妙法蓮華経の仏法の信仰は、
もっとも勇気のある、
人間の王者でなければ、
祈り、実践することのできない信仰だと、
言っても、さしつかえない!

といっても、これは、
ある意味、逆説(ぎゃくせつ)です。

どういうことか?というと、
南無妙法蓮華経を、となえるから、
勇気が、出てくるんです。
南無妙法蓮華経を、となえていくから、
強く、たくましい、
人間の王者と、輝(かがや)いていくんです。

明と暗、
人間は、
表裏一体(ひょうりいったい)だということです。
同じ人間であっても、
勇気のない弱虫にもなれば、
強い強い王者にも、なる。

同じ人間なんです。
その同じ人間の中から、
最大に強くて、たくましい、
あったかくて、やさしく、愛に満(み)ちた、
最強の王者のような生命を、
引き出していけるのが、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。

結論から言うと、
勇気は、幸せと直結していると思う。
勇気を出せば出すほど、
幸せになっていく!ということです。

その勇気を、最大限に発揮させるのが、
南無妙法蓮華経であり、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法の信仰です。


・・・
勇気は、幸せと直結する!
勇気を出せば出すほど、
幸せは、拡大してくわけです。

その勇気を最大限に出すことのできる力(ちから)が、
南無妙法蓮華経であり、
南無妙法蓮華経を、となえることなのだから、
南無妙法蓮華経を、となえれば、となえるほど、
当然、その人は、
幸せになっていけるわけです。

だから、ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰は、
人生を勇気へ!勇気へ!と導(みちび)き、
自己に挑戦しながら、
無限の可能性を、開花していける!

それが、
創価学会が、実践する、
南無妙法蓮華経の仏法です・・・。

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

posted by: kokouchi | | 19:25 | comments(0) | - |-
こころに、打ち出の小槌を163
まえに
「野ブタを、プロデュース」
というドラマを、見たことがあります。

その中で、
女子高生のノブタ(信子)は、
ひょんなことから、
巫女(みこ)さんのアルバイトを、
することになる。

それで、その巫女さんのアルバイト中、
ノブタ(信子)は、
神主(かんぬし)さんが、
大切にしていた木の枝を、折(お)ってしまう。

神主は、言う。
「あ〜あ!この木の枝を折ると、
 一番大切な人に、災い(わざわい)が、
 起こるんだよ!」

「それを防(ふせ)ぐためには、
 一番大切な人に、この神札(かみふだ)を、
 あげるといい!」

そう言って、
ノブタに神札を、渡(わた)す。

ノブタは、あわてて、駆(か)け出し、
ノブタを、人気者にプロデュースしようとしている、
二人の男子高校生、
修二と彰(あきら)に、
神札を、渡しにいく。

けれど、神札は、ひとつしかなく、
二人に会ったものの、
どちらに渡したらいいか、わからず、
悩む・・・。

結局、神札は、渡せず、
そのまま、神札を、海に放(ほう)り出してしまう。
それを見ていた修二と彰は、
あきれる。

そして、ノブタは、言う。
「みんなで、バチに当たろう!!」
(笑・・・)


さて、ノブタは、
神札を、だれにも渡さず、
海に放り出してしまったわけだけれど、
これは、正しいと思いますか?
間違っていると思いますか?

答えは、正しい!
逆に、そんなものを、持っていたほうが、
災(わざわ)いのもとに、なります。

よく、そういうものが好きな人は、
神札やお札、お守りなど、
たくさん、持っているけれど、
そんなもの、集めれば、集めるほど、
それらは、災(わざわ)いや病気、
さまざまな不幸の元(もと)となります。

なぜ、そうなるか?
というと、
宗教には、正邪(せいじゃ)がある!
ということです。
世間一般の人は、
このことが、わからない!!
宗教は、なんでもいいものだみたいな、
だから、お守りも、神札も、
持ってて、いいものだ!と思っている。

ところが、違う!
宗教には、明確な理論があり、
正しいものと、間違っているもの、
とくに、仏法(ぶっぽう)においては、
教義や理論における、正邪が、
明確に証明されていて、
正しいものに、祈った場合は、
幸せになるけれど、
間違ったものに祈った場合は、
逆の結果、すなわち、
不幸が、かならず、現れてくる。

それが、宗教です。

ようするに、
間違った宗教が作った、
お守りや神札、お札などは、
もともと、間違った、
言い換(か)えれば、
マイナスの宗教であるがゆえに、
お守りや、神札は、
人を守るどころか、
その逆で、
持っている人にマイナスの働きを、およぼし、
かえって、さまざまな不幸を、
その人に、もたらしてしまいます。

生命とは、不思議なもので、
間違った宗教が、
人間の生命におよぼす影響力は、
バカにできたものではなく、
必ず、その人の人生に、
マイナスの結果として、
現(あらわ)れてしまう。

それが、間違った宗教です。

日本の観光宗教、神社、仏閣(ぶっかく)、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)などの宗教が、
なんと足(た)しにもならない、
たんなる金儲(もう)けの宗教であることは、
仏法(ぶっぽう)の理論から言っても、
明白に証明されていて、
それらが、確実に、間違った宗教であることは、
間違いありません。

ところが、
世間一般の人は、
そんなことは、どうでもいいじゃないか!
神札とか、お守りとか、
名前が付いているんだから、
良いものに、決まっているじゃないか!
と、安易(あんい)に考えてしまう。

わからないと思いますが、
不幸の根源には、
この間違った宗教が、必ずあり、
『不幸の元凶(げんきょう)は、
間違った宗教にある!』
と、言い切ることが、できます。

それが、
日本人が好きな、
お守りとか、神札やお札だと、
言っているんです。

実際に、
なんらかの病気の人が、
それらの間違った宗教が作った、
お守りとか、神札などを、
すべて、捨てただけで、
それらの病気が、良くなったという例も、
多々、あるようです。

不思議といえば、不思議ですが、
それが、人間の生命であり、
生命と宗教とは、密接な関係があり、
知らないところで、
さまざまな影響を、およぼしています。

だから、
ノブタが、神札を、
だれにも渡さず、海に捨てたのは、
正しい行動だと、言え、
ぼくたちも、その行動には、
見習(みなら)うべきなんです。

たとえば、
友だちや、親戚(しんせき)などから、
神社、仏閣など、
観光旅行のお土産(みやげ)だといって、
お守りや、神札を、もらうことが、
あると思います。

せっかく、もらったのに、
もうしわけないと思うかもしれませんが、
そんなものは、すぐに捨てる!べきです!!

自分の大切な人生です。
間違った宗教の、
そんな、お守りや神札などのために、
たとえ、ほんのわずかであっても、
自分に、さまざまな不幸、不運が、
もたらされただけでも、
その人は、耐(た)えられないはずです。

ところが、長い人生から考えると、
その悪しき影響は、
ほんのわずかどころの話しでは、
おそらく、なくなっていくでしょう。

なぜ?自分が、こんな目に!!
と思いたくなるようなことが、
起こるとも、がぎりません!!

そうなったら、
だれだって、いやです。

だから、
間違っている!とわかっているもの。
悪(あ)しきマイナスの宗教である!と、
わかっているものの、お守りや神札は、
絶対に、躊躇(ちゅうちょ)せず、
ノブタのように、捨てるべきです!!!

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

さきほど、
宗教には、正邪(せいじゃ)がある!と、
言いました。

そして、間違った宗教が、
その人の人生に、
さまざまなマイナスの影響を、
もたらすことを、話しました。

マイナスの宗教が、
それだけ、自分の生命と人生に、
影響を、およぼすんだから、
こんどは、
プラスの宗教、
正しき宗教は、逆に、
自分の生命、人生に、
大きなプラス、
幸せの影響を、もたらすことも、
容易(ようい)に、
想像が、つくと思います。

その宗教の正邪を、
徹底的に研究し、究明(きゅうめい)しきったのが、
日蓮大聖人であり、
その結果、最も正しく、
ほんとうに、人を幸せにできる宗教、
人を幸せにする、
真実の大きな力(ちから)がある宗教が、
「究極(きゅうきょく)の法(ほう)」、
『南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)』なんです。

そして、
その日蓮大聖人の、
南無妙法蓮華経の仏法を、
真っ直(まっす)ぐに、
一点の狂(くる)いもなく、
正確に実践しているのが、
創価学会です。

この正しき仏法(ぶっぽう)である、
南無妙法蓮華経の信仰の力(ちから)は、
間違った宗教のマイナスの影響力など、
比(くら)べようがないほど、大きく、
数百倍、数千倍、
数万倍の大きなプラスの力を持つといっても、
決して、間違いではないと思います。

その結果が、今の、
世界192ヶ国に広がる、
創価学会の発展であり、
創価学会員ひとりひとりの幸せとなって、
世界各地に、花開いています・・・・。

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・
posted by: kokouchi | ドラマ | 22:02 | comments(0) | - |-
こころに、打ち出の小槌を162

このまえ、ビデオで
「ゲド戦記」という、
アニメ映画を、見ました。

この中で、
死を恐(おそ)れ、永遠の命を求めて、
暗黒の世界に身を投(とう)じてしまった、
クモ(人の名前)という魔法使いが、
登場します。

どういうことかというと、
クモは、死を恐れるがゆえに、
現実の世界で、
精一杯、生きることを拒否し、
暗黒の(悪魔の)魔法を使って、
人間としてというより、
化け物(ばけもの/おばけ)として、
永遠に生きようとしていきます。

しかし、悪の魔法使い、クモの野望も、
魔法使いの賢人「ゲド」と、
この映画では、
永遠の生命の象徴(しょうちょう)として描かれている、
龍(りゅう)の化身(けしん)である、
少女「テルー」によって、
打ち砕(くだ)かれ、
クモは、滅(ほろ)び去(さ)っていきます。


生と死、
よく、アニメなのでは、
このテーマが、わかりやすく、
とりあげられているけれど、
これほど、難(むずか)しく、
これほど、重要なテーマは、
確かに、ないと思います。

しかし、死とは、
生きるという感覚を、失(うしな)わないかぎり、
体験することは、当然、
できないので、
それを、理解することは、
不可能に近いかもしれない。

いったい、生と死を、
どうやって、とらえたらいいのか?
こんなこと、人は、
正直、考えたくないかもしれませんが、
あえて、少し、考えていきたいと思います。

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
この生と死について、
日蓮大聖人の御書(ごしょ)の中にある、
(御書とは、日蓮大聖人が、書かれた、
 論文や手紙を、すべて集めたものです)
『生死一大事血脈抄』の講義(こうぎ)の中で、
説明されています。

死の、とらえ方は、
一般的に、二つあるそうです。

ひとつは、
死ねば、無(む)に帰(き)するという考え。

もうひとつは、
死んでも、不滅の霊魂(れいこん)が、
続くという考え方です。

けれど、
釈尊(しゃくそん/しゃか/ブッタ)は、
死とは、その、どちらでもない!と、
言っています。

ここに、仏法(ぶっぽう)の不思議と、
真髄(しんずい)が、
あるような気がします。

まず、
死ねば、無に帰するという考えでは、
死への恐怖や、死に縛(しば)られた不安から、
永久に解放(かいほう)されることは、
ありません。

次に、自分の霊魂(れいこん)は、
不滅(ふめつ)であるという考えは、
往々(おうおう)にして、
「今の自分が、そのままで、
 不滅でありたい!」という、
安易な欲望の表現に過(す)ぎないことが、多い。

だから、結果的に、
自分を高める知恵にはならず、
かえって、今の自分への執着(しゅうちゃく)を増し、
迷(まよ)いと苦しみを、深めるだけに、
終わってしまう。

だから、
「死ねば無に帰する」という考えも、
「不滅の霊魂が残る」という考えも、
生きる支え(ささえ)にはならず、
むしろ、『死』をめぐる迷(まよ)いを、
深める結果になってしまう。

これでは、なんにもならない!
死に対する考え方は、
生きることを、より輝(かがや)かせ、
より充実(じゅうじつ)したものにするものでなければ、
何の意味もない!

すなわち、
死の苦しみを、乗り越(こ)えることができる、
『生死観(しょうじかん)』でなければ、
人間の生命を、解放することは、
できない!!!

結論から言ってしまうと、
この死の苦しみを、
乗り越えることのできる法則(ほうそく)!
生命解放の法則が、
『南無妙法蓮華経』なんです。

むずかしいと思いますが、
南無妙法蓮華経は、略(りゃく)して、
『妙法(みょうほう)』と、いいます。

その「妙(みょう)は死」、
「法(ほう)は生」を、
表(あらわ)しています。
妙法そのものが、
南無妙法蓮華経そのものが、
生と死の二法をつかさどる、
法則そのものだと、言うのです。

言い換(か)えれば、
生も死も、永遠の法則(ほうそく)であり、
この生死(しょうじ)の永遠の法則が、
南無妙法蓮華経だと、言っていいと思う。

生と死は、宇宙のリズムだと、いうことです。
無数の生命の生死、
あらゆる現象の起滅(きめつ)、
さまざまな次元(じげん)に起こる
因果(いんが)の法則、
その宇宙全体の調和と躍動(やくどう)が、
『南無妙法蓮華経』という、法則なんです。

だから、この南無妙法蓮華経の法則から、
のがれられる生命は、
ひとつも、一人も、いない!
ということです。

南無妙法蓮華経は、生の法則でもあり、
死の法則でも、あります。

生も死も、
南無妙法蓮華経という法則の上に、
なりたっている!ということです。

だから、ぶっちゃけて言ってしまえば、
死の苦しみを乗り越えていくためにも、
また、生きていくうえで、
自分の生命を、完全に解放し、
幸せに生きていくためにも、
この『南無妙法蓮華経』の法と共(とも)に、
生きるしか、ない!!ということです。

単純に言えば、
南無妙法蓮華経を、となえて生きる以外、
生死の苦しみを、解(と)き放(はな)ち、
最高に歓喜した生き方をする方法は、
ない!!と、いうことです。

仏法(ぶっぽう)では、
『生も歓喜(かんき)、死の歓喜』と、言います。

生を、最高に歓喜させ、
素晴らしいものにするために、
『死』は、存在し、
『死』が、最高に歓喜した、
素晴らしいものになったとき、
『生』は、最高に輝き、
充実(じゅうじつ)したものになる。

いわば、『死』は、
『生の断絶(だんぜつ)』ではなく、
『生の完成』となっていく。

そうなったとき、
死は、より深く、より新しい生への、
素晴らしい旅立ちとなっていく!!!

それが、仏法(ぶっぽう)の生死観です。

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

仏法では、「永遠の生命」を、説いています。
といっても、それは、
自分の霊魂が、不滅であるということでは、
ありません!
死んで霊魂が残るというのなら、
自分の経験や思い出、
自分の中にあるすべての思念(しねん)が、
そのまま、継続(けいぞく)することになります。
けれど、そうではない。
生命は永遠であるけれど、
死んでまた、生まれてくるといっても、
死んだ時の、自分であるという証(あかし)である、
自分の中のすべての思念は、
いったん、パッと消えて無くなってしまっている。

けれど、その核(かく)となるもの、
生命の本源的なものは、けっして、
消えていないで、残っている。
すなわち、それが、
その人の幸せを、つかさどる、
幸せのエネルギー、『福運(ふくうん)』と、
逆に、不幸を、つかさどるエネルギーと言える、
『宿業(しゅくごう)』です。
(宿業とは、不幸にならざるえないような、
 "宿命"のようなものです)

この『福運』と『宿業』は、
そのまま、
その人の生命の核(かく)に、残っていて、
その人の人生と生命に、
決定的な、大きな影響を、
与(あた)えていく。

実は、この『福運』を、
つかさどる法則が、
『南無妙法蓮華経』であり、
逆に、『宿業』を、
つかさどる法則も、
『南無妙法蓮華経』なんです。

だから、
自分に福運を、つけるためには、
絶対に、南無妙法蓮華経が、必要になっていき、
逆に、宿業を、打ち破(やぶ)るためにも、
必ず、南無妙法蓮華経が、
必要となっていく。

これが、南無妙法蓮華経という法則であり、
エネルギーです。

だから、この仏法の生死観に立ったとき、
南無妙法蓮華経は、
死に対しても、生に対しても、
決定的な役割を、持ってくる。

すなわち、
この南無妙法蓮華経を、はなれて、
本当の幸福、
最高に輝き、素晴らしい価値を持った、
真実の『大いなる生死』を生きる方法は、
ない!ということです。

この南無妙法蓮華経と共に、
生きてゆく「生死」のことを、
『妙法蓮華経の生死』と、いいます。

そして、この、
『妙法蓮華経の生死』以外に、
死の苦しみを乗り越え、
自分の生命を解放し、
本当の意味での生きがい!
本当の意味での幸せ!
本当の意味での生きる価値!
本当の意味での「死の意味」を、
つかむ方法はなく、
また、これ以上に幸せで、
素晴らしい生き方もない。

映画「ゲド戦記」で、
少女テルーが、
「命を大切にしないやつなんて、
 大嫌いだ!」
と、叫(さけ)びますが、
死を恐れ、逃避(とうひ)して、
現実の生を、ないがしろにしたり、
どうせ死ぬんだからと、
自分の生を、粗末(そまつ)に、あつかう生き方は、
間違っているし、不幸です。

そうではなく、
生きて生きて生き抜(ぬ)いて、
生命の価値を感じながら、
本当に輝(かがや)いて生きる生き方、
それが、
南無妙法蓮華経を、となえて生きる、
創価学会の生き方であり、
その生き方が、そのまま、
最高の死へと、結実(けつじつ)していく。


今日は、むずかしい話しをしたので、
納得(なっとく)いかないかもしれませんが、
もし、本当に納得したかったら、
単純な言い方をすれば、
『本当の幸せ』を、つかみたかったならば、
創価学会に入って、
ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経を、
となえぬく以外ない!ということだけは、
断言しておきたいと思います・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・
posted by: kokouchi | アニメ | 21:16 | comments(0) | - |-
こころに、打ち出の小槌を161
松下幸之助といえば、
知らない人は、いないほどの大実業家です。

極貧(ごくひん)の環境から一代にして巨大企業、
「松下電気」を、築(きず)き上げ、
(今の、パナソニックです。)
「経営の神様」と称(しょう)され、
経済界に多くの影響を与えつづけた人物です。

けれど、その松下幸之助が、
創価学会のインターナショナル会長である、
池田大作先生を、心の底から尊敬し、
心酔(しんすい)していたことは、
あまり、知られていないようです。

松下幸之助は、池田先生よりも、
20歳も、年上でしたが、
池田先生を、求めて、
創価学会本部や、聖教新聞社に、
おもむいたり、
また、ハワイで行われた、
創価学会インターナショナルの総会などにも、
老齢を押して、
池田先生を、求めるために、
参加している。

松下幸之助は、言っていた。

「この乱れた日本を救い、
世界の平和と繁栄(はんえい)を築いていく人は、
池田先生の外に、ありません!」


あるとき、
松下幸之助は、
自分の茶室に、池田先生を、招(まね)くことにした。

松下幸之助は、
「池田先生に、この廊下を通っていただき、
 この景色を、見てもらう。
 ここに、飾(かざ)りを置き、ここには、花を、
 そして、ここを、通って、ここに向かう・・・」
と、ひとつひとつ、きめ細かく、
部下たちに、指導してまわった。

松下幸之助は、普通は、
そういうことを、しないのだけれど、
池田先生だから、そこまで、気を使った。

松下幸之助は、言った。
「接待と接遇(せつぐう)は、違うのだ!
 大切な人には、
 最大限の気配(きくば)りと誠意を、
 つくすのだ!!」

と。

池田先生は、
松下幸之助にとって、
それほど、大切な人だった。

あるとき、
松下幸之助が、池田先生を求めて、
創価学会の会館に行ったとき、
松下幸之助は、具合が悪くて、
倒(たお)れてしまった。

まわりにいた人たちは、
驚(おどろ)き、心配したが、
池田先生が、
松下幸之助の背中を、さすりながら、
10分くらい、
南無妙法蓮華経を、となえ続けたところ、
松下幸之助は、意識を回復し、
元気を、取り戻(もど)した。

そのとき、
松下幸之助は、池田先生に言った。
「ありがとうございます。
 先生は、わたしの恩人だから、
 これからは、池田先生のことを、
 『おとうさん』と、呼ばせてください!」

松下幸之助は、池田先生よりも、
20才も年上だから、
池田先生は、当然、
それを、断(ことわ)ったけれど、
松下幸之助は、なかなか、がんとして、
きかない!
2、30分、池田先生と、
問答になり、
結局、池田先生も、松下幸之助も、
どちらも、おたがいに、
『おとうさん』と呼び合うことで、
話しが、ついたそうです。(笑・・・)

松下幸之助が、
老齢を、押して、
ハワイの創価学会インターナショナルの総会に、
行ったとき、
松下幸之助は、
池田先生に、言った。

「先生!
 日本は、池田先生のことを、
 あまりにも、知らなすぎる!!!!」

それは、松下幸之助が、
池田先生を、求め、尊敬し、愛する、
心からの叫(さけ)びだと、思う。

そして、それは、
その通りだと思う。

『日本人は、
 池田先生のことを、
 あまりにも、知らなすぎる!!』

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

一流は、一流を知る。

松下幸之助を、一流だと、
認(みと)めない人は、いないだろう。
一流どころか、みんな、
超一流だと、すべての人が、
認めるだろう。

その超一流である、
松下幸之助が、心から、
尊敬し、心酔(しんすい)した人物である、
池田先生は、
超一流の中の、超一流だと、
言えると思う。

池田先生には、
そういう、超一流の文化人、
政治家、科学者、芸術家、学者の友人が、
世界に、たくさん、たくさん、いる。
そして、その超一流の人物たちも、
池田先生に対する思いは、
松下幸之助と、変わらないと思う。

それが、
池田大作という人間です。

松下幸之助の話しに戻ると、
松下幸之助が、
政治家の育成を、するための、
有名な「松下政経塾」を、
創設(そうせつ)しようとしていた時、
松下幸之助は、
池田先生に、お願いを、した。

「池田先生!
 松下政経塾の総長になってください!」

池田先生は、
丁重(ていちょう)に、断ったけれど、
それを思うと、
松下政経塾出身者が多い、
民主党の議員などが、
票、欲(ほ)しさに、
創価学会を、非難してばかりいるのは、
まったくの、お門違い(おかどちがい)の、
松下幸之助の心を知らない、
「おろかもの!」と言えるかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・
posted by: kokouchi | エッセイ | 22:47 | comments(0) | - |-
こころに、打ち出の小槌を160

創価学会二代会長である、
戸田城聖先生が、
天下を取った徳川家康を通して、
語っていたそうです。

「信長、秀吉、家康の三人の中で、
 果報(かほう・福運の意味)は、
 家康が、一番もっていた。
 この果報ばかりは、人間の力(ちから)では、
 どうしようもない!
 だから、信心しなければ、
 解決されないのである。」


果報(かほう)とは、
結果の報い(むくい)と書くから、
結果が出てくる力、
幸せという無限の宝が、出でくる力と、
言えるかもしれない。

いわゆる、世間一般的に言われる、
『運』です。

これだけは、人間の力では、
どうしようもない!!と、
言っているんです。

仏法(ぶっぽう)では、「幸せになる運」のことを、
『福運(ふくうん)』と、いいますが、
この『福運』!
戸田先生の言葉を、かりれば、
『果報』は、ぼくたちが、
どんなに、あがこうが、どうしようもない!

たとえば、
どんなに才能があっても、
どんなに努力しても、
成功できるとは、かぎらない!
まして、
幸せになれる保証など、どこにもない!

それが、現実だと思う。
もちろん、努力は、必要だし、
才能も、必要かもしれない。

けれど、にもかかわらず、
不幸になっていく人が、
どれだけ、多いことか・・・・。

実は、
努力や才能を、生かし、
幸せになっていくためには、
決定的なものが、必要となってくる。

それが、『福運(ふくうん)』です。

戸田先生は、
この『福運』だけは、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の信仰と、
仏法の実践活動でしか、
つけることは、できない!!!
と、言っている。


福運・・・・!

福運が、なくなった人ほど、
みじめなものは、ない!
どんなに栄華(えいが)を、きわめていても、
福運が、なくなったら、
必ず、没落(ぼつらく)していき、
不幸になっていく。

これは、才能とか、努力とか、
そういうことでは、どうしようもないことです。

普通、世間一般の人たちは、
調子のいい時は、
当然、いい気持ちになり、
世の中は、自分たちのために、
回っているように思ったりする。

けれど、ひとたび、
さまざまなことが、
自分の思うようにいかなくなると、
急に、アタフタし、
おびえ、どうしようもなく、
途方(とほう)にくれたりする。

わからないのだ・・・・!
どうしたらいいのか!!

ようするに、福運を、つける方法、
福運を回復する方法を、知らないんです。
まったく、見当(けんとう)すらつかないでいる。

だから、絶望したり、
自己逃避(じことうひ)したり、
自殺したりするしかなくなる。

ところが、創価学会の人たちは、違う。
たとえ、どんなピンチにあったとしても、
福運のつけ方を、知っている。
ようするに、
自分の宿命(しゅくめい)を転換(てんかん)し、
福運をつける方法を、
明確に、わかっている。

それが、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
ということであり、
仏法(ぶっぽう)の実践活動である、
創価学会の活動です。

はっきり言って、
これしかないです!!

『福運』を、つける方法は、
ご本尊(ほんぞん)に、真剣に、
南無妙法蓮華経を、となえ、
真剣に、創価学会の活動を、するしか、
ありません!!

ほかの、どんなことをしても、
無理です・・・・。

ゆえに、
ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえる実践と、
仏法の実践活動である、
創価学会の活動ほど、
価値のあることは、
絶対に、ありえない・・・・!

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・

幸せの元(もと)って、
なんだと思いますか?

幸せの元(もと)
幸せを、つくっているもの・・?

それが、『福運(ふくうん)』です。
だから、単純に、
福運が、たくさん、ある人が、
幸せになるわけです。

じゃあ、
その福運の元(もと)は、
何だと思いますか?
福運を、作る、大元(おおもと)のエネルギー。

それが、『南無妙法蓮華経』だと、
思います。

だから、南無妙法蓮華経を、
たくさん、たくさん、となえている人は、
福運の元(もと)が、いっぱいいっぱい、
自分の生命に、たまってくる。

こんどは、その福運の元を、
『現実に外に出てくる福運』
すなわち、
現実に、悩みを解決したり、
夢を、かなえたり、
願いを、かなえたり、
現実に自分の人生を、幸せにしていく、
『本物の福運』にするために、
仏法の実践活動である、
創価学会の活動を、していきます。

そうすると、
自分の中に、たまった福運の元は、
自分の生命の中から、大きく開花して、
夢が、かなったり、
悩みが、解決したり、
自分の人生は、大きく、幸せへと、
転換(てんかん)していきます。

自分の中の福運が、
『本物の福運』となった時、
自分の人生は、希望の方向へ、
夢の方向へ、幸せの方向へと、
大きく、変革(へんかく)されていくわけです。

すなわち、
世間一般的に言う、
「運のいい人」「幸せな人」と、
なっていきます。

その『福運』を、単(たん)なる、
行き当たりばったりや、
成(な)り行きまかせではなく、
自分の力(ちから)で、つかみ、
勝ち取っていけるのが、
南無妙法蓮華経を、となえる仏法であり、
仏法の原理を基本とした、
創価学会の活動です。

だから、創価学会は、明るい!
笑いが、たえない!
なぜなら、世界中のどこの国でも、
南無妙法蓮華経を、となえる
仏法(ぶっぽう)の実践と、
創価学会の活動によって、
福運を、たくさん、たくさん、ため、
自分の人生に、福運の結実である、
幸せを、開花させていけるからです!

・・・・・・・・・・・・・つぶやき(こころに、打ち出の小槌を)・・・・・・・・・・・・・
posted by: kokouchi | 幸せ | 20:32 | comments(1) | - |-